この程度

今日は自己紹介。

私は同性愛者です。性自認は女性のはず。でもなんかよくわからない部分もある。自分が何者かに定義されたくて、Xgender(無性、中性、両性、その他)という枠組みにおさまろうと考えた時もあったけど、今はそんな枠組みはどうでもよくて、結局は一人一人違うものだから何に当てはまらなくてもいいかなと思う。まあこう思っているのも流動的というか、そのうちまた枠にはまりたくなる日も来るのかもしれないけど。さて、sexual minorityとかについて書くのは初めてだ。

 私が同性愛者だと気付いたのは10歳の時。小学5年生。なんとなくだけど、人に言ってはいけないということだけはわかった。別に自分の中で普通であり、自然なことだったから、気づいた時は悩んだりしなかった。歳を重ねるにつれて余計なことを考えるようになったせいか悩むことは増えたけど。性自認がなんか人と違うなと思ったのはもっと前。小学2年生とかそのへん。おままごとみたいなやつ、やるじゃんね、小学生って。女の子の役が嫌だったのが一番古い記憶かなあ。これも大きくなるにつれて悩むようになった。大人になるにつれて許されないことが増えていく気がして。壁みたいなものが迫ってくるイメージかな。もう後が無い。乗り越えられる気がしない壁に負ける。いつもそんな気がしてる。どうやって抜け道を探すか、早く見つけなくちゃいけないのに、どうしてもとどまったまま。いっそ法律で決めてくれたらいい。こういう服装をして、こういうことをしないと、捕まるって言ってくれたら割り切れるのに。自由だから、暗黙の了解があるから苦しい。今はどちらかというと性的指向より性自認で悩む。毎日どうしても意識してしまうものは性自認のほうが多いからだ。トイレに行く時もそう、歩いてる時だってそう。

「あいつちょっとおかしいよな。」

どうして誰にも言われていないのに、言われている気がするのだろう。気にするほど見られてもいないのなんかわかっている。それでも怖いものはたくさんある。自由に、聞こえないはずの声に、押しつぶされそうな日がある。大人になるということは自由の扱いがうまくなるということらしい。いつかそんな日が来るのかな。今は全く想像できない。

 

そもそもこの話をしようとしたのは最近の成宮くんの芸能界引退があったからだ。

「薬をやってないなら、引退したほうが怪しい。」
そういうことなのかな。

自分の身の潔白を証明したい気持ちよりもずっと、消えてなくなりたい気持ちが強かったんじゃないかと思う。消えてなくなりたいって、直筆で書くためには、哀しいエネルギーがどれだけ必要なんだろう。

 "人には絶対に知られたくないセクシャリティな部分もクローズアップされてしまった。"

彼が自分のセクシャリティにコンプレックスを持っていたのは文面からわかる。自分が自らセクシャリティについて打ち明けることは"カミングアウト"。でもこれは"アウティング。"  アウティングとは、自分の望んでいないところで性的指向性自認を暴露されること。私は彼の気持ちはわからないし、彼のセクシャリティも本人の口から発表されたわけではないから結局のところ知らないけど、私は自分がアウティングされたらと思うと心臓が痛い。本当に苦しい。それが大切な人であればあるほど。こんな狭い世界でしか生きていない私が想像しただけで苦しくて泣きそうになるんだから、彼の気持ちなんて計り知れない。どれだけ怖いかわからない。ただでさえ、人に知られていない時でさえ、こんなに怖いのに。

大学生がアウティングされて自殺した事件。自殺した人は弱かったの?本当に?

自分自身でコンプレックスに思っていることや偏見があることを人に知られたとき、心臓を握りつぶされそうな気持ちになること。これはあまりにも知られていない。知ろうとされていない。何気ない行動の中に、自分のマイノリティを意識する場面がいくつあるかなんか数え切れない。何気ない会話の中に混ぜられる冗談。そんなことで今更傷ついたりしない。傷つく暇なんかない。傷つく暇なんかないのは、それくらい頻繁だからだ。確かに以前よりは世の中に認められてきたかもしれない。でもそれが実感として現れる場面が本当に少ない。性別に囚われたくない自分が誰よりも囚われているのもわかってるし、本当は自分が一番、自分に偏見を持っていることも気づいている。だってずっと考えてきたんだもの。ずっと付き合っていかなくちゃいけないんだもの。

「難しく考えすぎじゃない?もうちょっと気楽に生きれば?」そうだね。考えすぎなことも、わかっているんだよ。でも毎日つきまとう。なんでだろうね。私が弱いのかもね。もっと強い人は、それはそれはたくさんいるだろうね。でも弱い人がいることも知ってほしいよ。たとえ甘えと言われても。

人の気持ちはわからないよ。苦しみなんかわからない。言葉で言われたって、それは言葉でしかない。これはminorityに限らないし、人と比べるものじゃない。「もっと大変な人もいるのに。」とか「この程度のことで悩んでるなんて馬鹿みたいだよね」とか友達に相談されるときによく言われるけど、それは自分にとってどうでもよくないことだから、"この程度のこと"が"この程度のこと"と自分で思えないから悩むわけだから、そんなことを思う必要は全然ない。人は自分の傷にばかり敏感で他人の傷には鈍感なことを、この報道でまた思い知らされたよ。

もちろん、私も例外ではないけど。

 

 

生まれ変われないから人は歌うのさ

乗り越えられないものはどうしたらいいんだろうね。

どうしようもないもの、わりきれないことはずっと抱えて生きていく。きっとみんなこういうのはあるんだろう。

どうしようもないよ。

生まれ変わったら。生まれ変わったら。生まれ変わったら‼︎‼︎‼︎‼︎

望み通りになれたなら、私は満たされるのかな。

でもきっと、生まれ変わってもなにも変わらない。私が私である限りきっと何一つ変わらない。望んでいる限り変わらない。

 

いつまでつづくんだろう。いつになったらおわるんだろう。

生まれ変わっても、もう一回自分になりたいと言える人はこの世に何割いるんだろう。

いい意味で、違いを体験してみたくて自分以外を選ぶ人。もう自分にはなりたくなくて自分以外を選ぶ人。どっちが多いんだろう。

この話が無意味なことも、ちゃんと知っている。

どうしようもないことがなかったら

私は世の中つまらないなとか言ってたのかな。

だからどうしようもないことを与えられたのかな。

満たされたら、死んじゃうのかな。

わからないことがいっぱいだな。

 

 

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配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどういう意味であれ

 

 

勝ち越したいな。抱えたまま走りきれたならそれは私の勝ちかもしれない。

 

いつか全てがどうでもよくなりますように。

 

暇人の遊び

この間久しぶり会った友達と、悩みがないということに悩むという話になった。どうやらお互いに悩みがないと落ち着かない性格らしい。素直に悩みがないことを喜べばいいのにね。ということで今日は悩みのお話。

彼女はともかく少なくとも私は、悩みを食べて生きているのではないかというくらい悩みというものを必要としている人間であり、悩む時間は数ある幸せのうちの一つだと考えている。こんなことを言うと、果たしてその悩みとやらは、本当に悩みと呼べるものなのかと疑問に思う人もいるかもしれない。なぜなら、悩みというものは本来必要とされないものであり、悩みがあるということは不幸であるはずだというイメージがあるからだ。不幸を伴わないと、悩んでいるとは言えないのだろうか。悩みを必要とするのはおかしいことなのだろうか。

 私は悩みがあるということは、苦しんではいるものの必ずしも不幸ではないのではないかと考える。なぜなら、毎日何かに悩んでいるが故にその悩みが自分を構成する一部になっているという人もいるし、たくさんの幸せの中から選りすぐった悩みを、わざわざ額に入れて眺めたがる、俗に言う"悲劇のヒロイン"ってやつに浸っている人もいるからだ。私はおそらく前者でもあり後者でもある。悩みを必要とし悩みに生かされ、そして悲劇のヒロインという立場に浸って生きている。

悩みを必要としているというと、あまりピンとこないという人もいるかもしれないが、例えば、誰かにずっと悩んでいたことを相談したら、すぐに答えが返ってきた。という出来事があったときに、答えを見つけた喜びより、悩みがあっけなく消えたというモヤモヤの方が大きかったという人は少なからずいると思う。自覚がなくても、悩みが心を安定化させているというのは案外多い。故に人は悩みたがる生き物で、そして望むのはおそらく例外なく、適度な量であるという条件付きだ。どんなものも度を超えたらよくないことが起きるのと同じように、悩みがでかすぎると悩みに潰されてしまうし、悩みがないとそれはそれで無意識の内に自分で探してしまう。

そう。無意識のうちに。自分が傷つくようなサイトや動画を見ては自分を可哀想なやつだと思うことに浸り、"普通になりたい"と苦しんでいるように見えて本当は、"普通になりたいと言っていたい"だけであり、すでに答えが出ている事実に目を背けていつまでも見つからない答えを探し続けているフリをして、こうして今日も私は、悩みがなくならないように生きている。そろそろ自ら悩みを作り出す達人の称号を手に入れられそうなくらいに。

わざわざ悩みを作り出すということは、今という世界にそれなりに幸せに生きていないと出来ないことだ。これには時間が必要であり、数ある幸福の中から不幸にばかり目を向けるのもそんなに簡単なことではないからだ。ゆえに悩んでいるというのはそれなりに幸せな証のうちの一つなんだろうなと思う。わざわざ幸せの中から不幸を探す労力があるのなら、悲劇のヒロインに浸っていないでやるべきことをこなし、真剣に行動すればいいのはわかっている。しかし今更どうしたらいいかわからない。こうしてまた悩むのだ。そしてこれを悩みはじめることもきっと悩みたがりの私の思い通りで、とっても幸せで健康で、何一つ不自由なく生きていて、なにより暇だという証拠なのだ。

逆に言えば負けそうな時はこれと逆のことをすればいい。簡単なことだ。忙しく過ごしなにかに没頭すればよい。これを知っているだけで本当に辛い時に悩みすぎるということはなく、適度な悩みを持って健康に生きられると思う。要は捉え方次第であり、良いものとするのも悪いものとするのも自分だ。悩みがあると感じたときに、それはきっと今が幸せだからだと幸せの存在を感じるのか、押しつぶされてしまうかのどちらかなら、私は前者を選ぶ。

悩みを肯定的に書いてはいるが、こいつはなにもしてくれない。なにも解決してくれないし、意味もない。ただ一緒にいてくれるだけだ。悩みがあるから偉いわけではなく、暇な人は悩みで遊べばいいのでは?くらい。遊びに押しつぶされるなんて馬鹿馬鹿しいでしょう?だからバランスをとって付き合う。私はよく悩むけど、あーこいつ暇なんだなと思ってくれればいい。どうせたいして悩んでもないから。

 

ないものがあるということ

一昨日はスーパームーンでした。私の住んでいる所はあまり見えなかったけど。月が輝いて見えるのは、太陽の光を反射しているから。自分では輝くことができない月と、それを輝かせる太陽っていうのがなんとなく気に入っている。

 

さて。最近は足の裏を縫いました。

これがもうとても不便。どこかが不自由になってはじめて気付くことってあるよね。一見使わないような薬指を突き指したときも、その時に初めて役割を感じられたりしたなあ。

なくさないと気付かないもの、持っていると気付けないことがこの世界にはたくさんある気がする。

例えば権利。例えば健康。例えば自由。

何かにたくさん気付くことができる人を人は羨んだりするけれど、きっと羨んでいる側の人の方が実は色々なものを持っていて、持っているが故に気付くことが出来ないのかもしれない。

 

"あなたにないものはなんですか。"

 

なにかに気付ける人はなにを持っていなくて、どんな風に物事を見ているのかということを知っていったら、私の物の見方も広がったりするのかな。

気付いていきたいよ。目に見えないものはとくに。

 

「自分は太陽と月だったらどっちになりたい?」って聴いてみたんだよね。まあもうだいぶ前のことだけど。

「自分はどっちにもなれない気がするな」

と言った友達の答えも、私はずっと好きなんだろうなと思う。

 

 

はじまり

 こんにちは。気が向いたままに更新していきます。

飽き性なので3日で終わるかもしれないけどそれはそれでいいかな。

 

 

 

なにかを"わかっている"というのは、そのことに対する知識がたくさんあること。

に留まらず、そのことを"相手に合わせて伝えることができること"だと思う。

あくまで私の中でね。

 

 

たくさんのことをわかりたい、色々なことに興味を持ちたい。

犬と音楽と、くだらないことと考え事が好き。

 

 

 好きな時に遊びに来てください。