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暇人の遊び

この間久しぶり会った友達と、悩みがないということに悩むという話になった。どうやらお互いに悩みがないと落ち着かない性格らしい。素直に悩みがないことを喜べばいいのにね。ということで今日は悩みのお話。

彼女はともかく少なくとも私は、悩みを食べて生きているのではないかというくらい悩みというものを必要としている人間であり、悩む時間は数ある幸せのうちの一つだと考えている。こんなことを言うと、果たしてその悩みとやらは、本当に悩みと呼べるものなのかと疑問に思う人もいるかもしれない。なぜなら、悩みというものは本来必要とされないものであり、悩みがあるということは不幸であるはずだというイメージがあるからだ。不幸を伴わないと、悩んでいるとは言えないのだろうか。悩みを必要とするのはおかしいことなのだろうか。

 私は悩みがあるということは、苦しんではいるものの必ずしも不幸ではないのではないかと考える。なぜなら、毎日何かに悩んでいるが故にその悩みが自分を構成する一部になっているという人もいるし、たくさんの幸せの中から選りすぐった悩みを、わざわざ額に入れて眺めたがる、俗に言う"悲劇のヒロイン"ってやつに浸っている人もいるからだ。私はおそらく前者でもあり後者でもある。悩みを必要とし悩みに生かされ、そして悲劇のヒロインという立場に浸って生きている。

悩みを必要としているというと、あまりピンとこないという人もいるかもしれないが、例えば、誰かにずっと悩んでいたことを相談したら、すぐに答えが返ってきた。という出来事があったときに、答えを見つけた喜びより、悩みがあっけなく消えたというモヤモヤの方が大きかったという人は少なからずいると思う。自覚がなくても、悩みが心を安定化させているというのは案外多い。故に人は悩みたがる生き物で、そして望むのはおそらく例外なく、適度な量であるという条件付きだ。どんなものも度を超えたらよくないことが起きるのと同じように、悩みがでかすぎると悩みに潰されてしまうし、悩みがないとそれはそれで無意識の内に自分で探してしまう。

そう。無意識のうちに。自分が傷つくようなサイトや動画を見ては自分を可哀想なやつだと思うことに浸り、"普通になりたい"と苦しんでいるように見えて本当は、"普通になりたいと言っていたい"だけであり、すでに答えが出ている事実に目を背けていつまでも見つからない答えを探し続けているフリをして、こうして今日も私は、悩みがなくならないように生きている。そろそろ自ら悩みを作り出す達人の称号を手に入れられそうなくらいに。

わざわざ悩みを作り出すということは、今という世界にそれなりに幸せに生きていないと出来ないことだ。これには時間が必要であり、数ある幸福の中から不幸にばかり目を向けるのもそんなに簡単なことではないからだ。ゆえに悩んでいるというのはそれなりに幸せな証のうちの一つなんだろうなと思う。わざわざ幸せの中から不幸を探す労力があるのなら、悲劇のヒロインに浸っていないでやるべきことをこなし、真剣に行動すればいいのはわかっている。しかし今更どうしたらいいかわからない。こうしてまた悩むのだ。そしてこれを悩みはじめることもきっと悩みたがりの私の思い通りで、とっても幸せで健康で、何一つ不自由なく生きていて、なにより暇だという証拠なのだ。

逆に言えば負けそうな時はこれと逆のことをすればいい。簡単なことだ。忙しく過ごしなにかに没頭すればよい。これを知っているだけで本当に辛い時に悩みすぎるということはなく、適度な悩みを持って健康に生きられると思う。要は捉え方次第であり、良いものとするのも悪いものとするのも自分だ。悩みがあると感じたときに、それはきっと今が幸せだからだと幸せの存在を感じるのか、押しつぶされてしまうかのどちらかなら、私は前者を選ぶ。

悩みを肯定的に書いてはいるが、こいつはなにもしてくれない。なにも解決してくれないし、意味もない。ただ一緒にいてくれるだけだ。悩みがあるから偉いわけではなく、暇な人は悩みで遊べばいいのでは?くらい。遊びに押しつぶされるなんて馬鹿馬鹿しいでしょう?だからバランスをとって付き合う。私はよく悩むけど、あーこいつ暇なんだなと思ってくれればいい。どうせたいして悩んでもないから。